真夜中の川岸。
男が一人、桜の木を背に立っている。
男はまだ初々しさの残る面構え。衣冠姿が板についていない。
そこへ、女車がガラガラと音を立ててやってきた。
男はその車へ素早く近づくと、その場に跪いた。

「やっとおいでくださったのですね…」

男は頭を下げたまま、嬉しそうに中の女に声をかけた。
女は、さほど身分の高い女ではなかったが、
ゆったりと余裕のある笑みを浮かべた美しい女であった。
男より少々年上であろう。

「そなた、わたくしを呼びつけて、一体何用です?」

女はここ数日、この男からの恋文に悩まされていた。
女には、すでに心に決めた男がいたのだ。
しかし文を断ろうにも、知らぬ間に屋敷に放り込まれているのだ。
断りの返事を届けるにしても、届け先がわからない。
想い人との逢瀬の日にも文は舞い込み、二人して顔を顰めていたのだ。
そしてとうとうそんな日々に嫌気がさし、
女は思い切って記されていた刻限に、指定されたこの川岸へとやってきたのである。
男はぱっと顔を上げると、真剣な面持ちで言葉を紡いだ。

「ずっと、お慕い申しておりました。
 わたくしのようなものでは、おいそれと貴女様のお屋敷には伺えません。
 どうか、一夜の契りを…」

「お断りいたします」

女は冷たく突き放した声で告げた。

「な、なぜですか!」

男はまさか拒絶されるとは思ってもみなかったのであろう。
女の言葉に動揺し、声を荒げている。

「わたくしにはすでに心に決めたお方がおります。失礼」

女の言葉に、御者が牛車を引いた。

「くっ…」

来た道を戻って行く車に、男は口惜しげな視線を向けた。

土御門の晴明の屋敷。
いつものように勝手に開く門から中に入ると、博雅はこの屋敷の主に声をかけた。

「晴明、おるか?」

博雅の声に、奥から巻子を手にした晴明がそろりと顔を出した。

「よく来たな。博雅」

晴明が巻物を手にしているなど、珍しいことである。
博雅の中で、晴明はいつでも濡れ縁で酒を飲んでいるという気がしてならないのだ。
勿論、陰陽寮で勤めを果たしている姿も何度となく見かけているが、
やはり、濡れ縁で酒を飲んでいる姿が一番晴明らしいと思ってしまう。

「忙しいのか?忙しいならまた日を改めるが…」

「いや、そういうわけではない。少し部屋を片付けていただけだ」

言うと、晴明はやってきた式神に巻物を託し、どんどん歩いて行ってしまう。

「どうした博雅。来ぬのか?」

振り返った晴明に問われ、博雅は慌ててその後を追った。

「春だな…晴明よ…」

庭の草木を愛でながら、博雅はうっとりと呟いた。
暖かな日差しが頬に優しい。
つい最近まで寒さにうち震えていたのが嘘のようである。
冬のうちはずっと濡れ縁で飲む事はなかったので、ここでこうして飲むのは随分と久し振りだ。

「そうだな…。この分だと、今年は桜の開花が早いかも知れないな」

「桜か…。そうだ、晴明。桜が咲いたら一緒に花見にゆかぬか?」

博雅の誘いを晴明が断る理由はなく…

「そうだな。ゆこうか…博雅」

そう応えた晴明は、いつもより更に深い笑みをたたえていた。

男は、今日も女に宛てて文を書く。
愛しい想いを一心に込めて。
しかし、その文は女の元へ届くことはなかった。
屋敷に共に住む乳母が、その文を毎度焼き捨てていたからである。

「あの日以来、男からの文は一通もありませぬ」

乳母が女に告げる。

「そうですか。やっと諦めてくださったのでしょう」

よかったと微笑む女に、乳母は曖昧な笑みを浮かべた。
男がまだ諦めていないことを女は知らない。
もしかすると、いつまでも約束の場所に来ない女に痺れを切らして、
何か危害を加えにやってくるかもしれない。
もうじき女も婚儀を迎えて幸せを手にするのだ。
その前に、この諦めの悪い男を何とかしなければならない。
乳母はその夜、待ち合わせの場所へと牛車を向けた。

「ああ、来てくださったのですね」

約束の時間に川岸へ行くと、男が三分咲きの桜の木に寄りかかって待っていた。
乳母は、その男の無邪気な声を聞くと、今から自分がしようとしていたことに罪悪感を覚えた。
しかし、このまま男を放っておくことはできない。
女に冷たく振られても諦めないこの男には、何を言っても無駄であろう。
女の幸せを揺るがしかねない。
乳母の願いは、女の幸せ…ただそれだけなのである。
もし、自分の説得にも応じない時は…。
その時は…。

「もし、そこの者」

乳母は思い切って声をかけた。
男は、その声に目を見張る。

「貴女は…一体?」

牛車から聞こえてきたのは、予想していた女の声ではなく、しわがれた老婆の声。
男は困惑した表情で牛車を見つめる。

「もう、文を書くのはお止めなされ」

「え?」

「かのお方はもうすぐ他の殿方と…」

「嘘だ!!」

乳母の言葉を男は遮る。

「そんなこと…認めません!」

「そなたの言い分など知りませぬ。
 かのお方はもうすぐ幸せになられるのです。諦めなされ」

乳母は、男を諭すように呟いた。

「そんな…そんな…」

項垂れる男の姿を見て、乳母は心を痛めた。
こうして話してみれば、そんなに悪い男とは思えない。
もしも、この男があの方より先に女に出会っていたなら、今頃は違う運命を生きていたかもしれない。
乳母がほんの少し哀れみの念を抱いた時、男が唐突に口を開いた。

「わたくしは、それでも諦めることができないのです。
 どうか、今一度わたくしにも機会をお与えください」

乳母は困った。
既に女には心を通わせる男がいる。
この男の逢瀬の夢など叶わぬだろう。
しかし、このまま説き伏せるのは哀れなように思えた。
ならば、この男がまだ希望を持って生きられるように、ささやかな機会を与えてやろうと思う。
乳母はゆっくりと口を開いた…。

「そうだ。桜といえば晴明。お前は蒼い花を咲かせる桜の木を見たことがあるか?」

唐突な博雅の科白に、晴明は小首を傾げる。

「蒼い花の桜?」

「そうだ。ここから丸一日牛車でゆくと、なかなか美しい小川があるのだが、
 その河原にある数十本の桜のうちの一本が、不思議なことに蒼い花を咲かせるらしい」

「ほう」

晴明は面白そうに相槌を打った。

「博雅はそれを見た事があるのか?」

「実際に花を見たことはないが、たまたま帝の遣いでそこを通った事があってな、
 その時、木だけなら見た事がある」

博雅はその情景を思い出しているのだろう。目が遠くを見つめている。

「どの桜も、なかなか立派な大木であったよ」

「そうか」

うっとりとしている博雅につられるように、晴明も心なしか夢見心地で酒を口に運ぶ。

「見てみたいな…」

晴明の唇からぽろりと零れた呟きを、博雅は聞き逃さなかった。

「晴明。花見はそこへ行かぬか?」

「…そうだな…そうするか」

『もしも、その桜が蒼い花を付けたら、そなたの願いを叶えよう』